母の日

数年前に亡くなった母は、生きていたら95歳です。

母は名古屋の女子医学専門学校の最終学年の夏、終戦になり、九州の故郷に帰ってきました。故郷は駐留軍に占領され、母は祖母と、山を幾つも越えた遠い村に疎開したのです。そうして、母は故郷で半年後に結婚しました。一度会って二度めが結婚式だったそうです。

女性の選挙権がない時代でした。国立大学(旧帝大、高校)は男性しか入学できません。女性だけの医大(旧専門学校)が全国に4-5校だけでした。そのような状況、そんな中で医者になる道を選んだ母が戦後辿った状況は、今の私にはなぜ、と思えます。時代は、こうして変わってきたのだと感じます。

母の通夜での親友の方の言葉です。
「名古屋に出向いて東山動物園に二人で行きました。丘に座ってあらちゃんは外科医になりたいと話しました。戦時中でも若かった私達には夢がありました」

母はその夢をどこかに捨てました。父の病院で早朝から夜まで、日曜も休みの日もなく、裏方として働いていました。

「牡蠣を二つずつ、五十、五十一、五十二、、」母がこたつで寝ていて寝言を言ったのを覚えています。患者さん従業員さんたちの給食のカキフライの数でした。

80歳を過ぎて4回の大手術のあと、車椅子から寝たきりになりました。

強い女性だった面影は無くなったように私には思えました。しかし、私が病室から去ろうとしたとき、母は身を起して私に手を差し出しました。

「あんたはあんたの人生を生きるのよ」私への最後の言葉でした。

数か月後、亡くなった後でした。親友に頼んでいた骨壺は、自分のものと10か月で亡くなった長男の小さな骨壺とふたつありました。一緒にお墓に入れてほしい、という遺言でした。

母は、60年以上前であっても、先に逝った子どもを忘れることはない、と知りました。

自宅の満開の芍薬