ひとすじ
私の父は8歳で感染症にかかり、抗生剤のないときで骨髄炎になり、びっこになりました。小さい頃「お前のとうちゃん変な足」といじめられました。私は小さい時から父の靴下を履かせるのが朝の日課でした。
「脚悪きわれの今でも見る夢は運動会で走る夢」父の晩年の俳句です。
父の骨髄炎は亡くなるまで毎年梅雨の頃、高熱が出て膿が皮膚から流れて寝込んでいました。また、一時結核の方を診ていたため毎年冬は肺炎になり肋膜炎で肺は7割しかありませんでした。父は医者でもあり病人でもあり続けたのです。
それでも片足で自転車をこいで往診に行っていました。昔の道は車が入らないような道が多かったのです。そうして次第に、地方の温泉町は若者がいなくなり活気が薄らぎ、戦争を潜り抜けた老人たちが、町に残されました。
戦中戦後、未亡人になり、ひとりで田畑に出て働き何人もの子供を育てた、そんな方がどの町にも大勢いました。
ある夜明け頃、70歳過ぎの入院患者さんが亡くなり、朝ご家族と帰っていかれました。その日の昼食後、ソファで横になり眠っているとばかり思った父が呟きました。「薄幸の78年の女性の人生が終わった」。父は夜明けに亡くなった患者さんの人生を想っていたのだと、私は知りました。
その父も77歳になり持病の肺炎が治らず、築いた病院を一年がかりで閉じて、国立病院に入りました。自宅では三食おかゆとアイスクリームを美味しいと食べていたのが、鎖骨下静脈から高カロリー点滴が入り絶食です。あらゆる検査をしました。しかし、父は自分の葬式に呼ぶ人も遺言も墓も済ませていました。
「今日は家に帰りたい。家の裏の門を開けるように伝えてほしい」。
入院から一週間経った朝、父は医療者や家族に頼みましたが「この点滴をして元気になって帰りましょう」と諭されました。
そして、その夜十時に、痰を詰まらせて息が止まっていた姿を発見され、父は自分が朝言ったとおりに、その日裏の門から家に帰ることになりました。
「ひとすじに医の道のほか知らざりき世に疎しなど人に言われて」
「ひとすじの道の遠くて時雨かな」父の晩年の句です。