ありがとう
2020年11月16日
その患者さんD子さんは10歳台のお子さん3人のお母さんでした。
進行した胃がんが見つかって2年後経ち、痛みと吐き気を抑えるための入退院を繰り返していました。
授かった最初のご長男は軽い知的障害を持っていました。D子さんは私におっしゃいました。「こんな時家族みんなが長男の笑顔で救われます。だからずっと傍に居たいのです」。ご長男は24時間、病室のお母さんのベッドと窓の間の狭い、でもお母さんのお顔が一番近くに見える場所に座っていて、夜もそこで毛布に包まって眠っていました。
ご長男はよく、お母さんのお顔に自分の頬を擦り寄せて微笑んでいました。まるで幼児のように。離れません。お母さんは目をつぶったまま優しい微笑みのままです。
ご長男だけはお母さんがどんな状態かわからないのです。このことは患者さんにとって救いでした。「無垢」という清らかさ。
恩師日野原重明先生がご長男に言われました。「あなたはここにいるだけで、お母さんをあなたが守っているんですよ。だからこんなに良いお顔をしているでしょ。」
D子さんもにこにこしてご長男をみています。
「お母さんはあなたに、きっと、ありがとうと思ってくれていますよ。これからもね、お母さんのお顔をこうして撫でて下さいね(手を添えて差し上げます)。あなたは忘れないでしょ。お母さんはあなたに、ありがとうと言ってくれているんですよ。」
ひと月後D子さんがお亡くなりになった時、ご長男は、いつものように傍に座ってお母さんのお顔を撫でていました。
彼にはお母さんの「ありがとう」の声がその時、そしてそれからもずっと聞こえていたでしょう。
聖母子像(ステンドグラス。ランス大聖堂)マルク・シャガール作1973年