「お弁当」

「リーダーは95歳」の本の中からもう一つの文章をご紹介します。

「お弁当」   P53 -54

その四十代の女性には、小学六年の男の子と中学三年の女の子の子供がいた。夕方になるとご主人が子供さんたちをつれて親子水入らずのひと時を病院で過ごしていた。女性は余命数週間と思われたが、市丸にいつも同じ言葉を言った。

「先生、上の子の高校入試の前日は外泊したい。二月のその日まで命が灯っているだろうかと心配です」。高校入試の日にこだわるのは、子供に合格してほしいからだと市丸は考えていたが、実際は少し違った。

「入試の朝のお弁当を作ってやりたいの」。女性の願いは、入試当日に娘に持たせるお弁当を自分の手でつくりたいというものだった。

すでに寝たきりで意識も朦朧としていたが、うわごとのようにこの言葉を繰り返す。何とか高校入試の前日、病院から寝台車で自宅に戻ったのだった。一日だけの外泊だった。自宅でも一番陽当たりのいい部屋で横になって、一日を過ごし、翌日病院に戻ってきた。

市丸は受験した娘さんにあとでその時の様子を聞いた。「お母さん、お弁当作るってずっとこの日を大切にしていた」と、娘は泣きながら言った。

「母はお料理が得意で、母のお弁当が私の自慢だったんです。きれいでしょ。冷凍食品がないでしょって。入試の朝は母がいつもつくってくれていた得意だったおかずを、弟と父とでつくって、寝ている母の枕もとで見せました。眼を開けてうなずいてくれました。行ってきますって言って入試に行けました。母が家に帰ってきてくれただけで私は嬉しかった」

女性は自宅から戻ったその日に息をひきとった。

市丸は、患者の生きた証、生き抜く力、家族愛など多くのものをこのとき教えられたと言う。