光りに包まれて

忘れられない患者さんがいます。

今から20年以上前です。

私はある病院で重症のホームレスの方を診ていました。戦後、結核にかかった子供たちのために建てられた病院に、ホームレスの方のための収益無しの五十人の病棟があったのです。入院された方は五日間は毎日身体を洗っても汚れと臭いが取れません。自力で歩ける方、食亊を摂れる方はいません。全身の力が弱り切っていました。

ある患者さんは、東京オリンピックで日本に活気があった頃、北国から単身で東京に来られました。数年後仕事がなくなり故郷に仕送りを送れなくなった時、故郷の家族との連絡が途絶えました。数年たつと、音信不通になり仕事もなく友人もなく独りになりました。そうして老いました。

寝るところもなく路上で過ごしてきた数年間に衰弱してしまい、現代は治るはずの結核や他の感染症の治療が効かないのです。肺は機能しなくなっていました。

その日、その方のいのちは今日明日かと思われました。

私は傍にいました。その方は眼を閉じていて、意識が低下していきます。そのとき、酸素マスクの下で「みどりせんせい」と呟きました。「はい。ここにいますよ」と答えて手を握りしめました。呼吸は浅く早く、苦しそうです。しばらくして「ふうう」と大きな呼吸をされました。突然、私の握っている手を「ぎゅっ」と握りしめて、大声で「ちくしょおおお」と叫びました。

次の瞬間、私の手を握っていた手の力が消えました。呼吸が止まっていました。

なんという「最期の言葉」でしょう。力を振り絞って噴き出てきた言葉でした。

私はしばらく呆然としました。私たちの罪を変わってこの世を過ごされた方。天に招かれてどうか光に包まれますように。

私の自宅の階段に、30年前にワシントンDCの国立美術館で出会った絵があります。「人生の航海」の題で四つの絵、幼年期、青年期、壮年期、老年期、の四つの人生が描かれた絵で構成されています。

老年期、の絵では壮年期まで背景にあった豊かな木々や植物が消えています。海は静かになり、小舟に老人がひとりで乗っています。老人は穏やかな表情で天使を見ています。

暗い雲のかなたから、眩い光がさしています。

静かな海の上を、光に向かって小舟が進んでいます。天上から光のなかを天使が降りてきているのが見えます。老人は光に包まれて天国に行かれたのだと信じています。

[「人生の航海」4部作うち「老年期」] トーマス・コール作(1842年)。