伝える

10年前の3月11日、東日本大震災が起こり、福島原発から白い煙が出ているのを見て私は息をのみました。患者さんTさんが私に言われた言葉を想い出したのです。

当時頂いたご家族の許可に添って伝えたいと思います。
震災後、核科学者であるTさんが1995年に福島第一原発事故をただ一人「想定」していた論文を書かれていたと知りました。
『考えられる事態とは、(中略) 地震とともに津波に襲われたとき 』
『原発サイトには使用済み核燃料も貯蔵され、(中略)どう対処したらよいのか、想像を絶する (中略) これから徹底的に議論し、非常時対策を考えて行くべき』『「原発は壊れない」建て前になっているため、今のような機会(注:阪神大震災の教訓) を生かして、原発が被災した場合の緊急時体制や老朽化原発対策などを真剣に考える(筆者略)』
『 そのような事態を想定して原発の安全や防災対策を論じることは、「想定不適当」として避けられてきた。 しかし、(中略) 考えうるあらゆる想定をして対策を考えていくことが、むしろ冷静で現実的な態度と思われる』

Tさんに外来で最初にお会いした時、2冊の著書をくださいました。その後お部屋に伺うと開口一番に「先生。私の本を読んでくれましたか?」と訊ねられます。
「どなたにもできないようなことをされて素晴らしい」とあいまいに応えました。「あの、もっと読んでくれますか。私のしたことは誰にもできることなのです、それをわかってほしいのです」

上州で生まれたTさんには先輩である萩原朔太郎の詩が傍らにあったといいます。「鋼鉄の冬よ何者も清く氷結させる勇者よ俺はただ一筋の矢となる」

核化学の専門家であったTさんは、1960年代の大学の闘争時代を経験し、学問は世事に流されず独立性を保つべきだと、悩みました。
やがて、35歳で大学から飛び出て、政府や産業界の利害にとらわれず研究活動を行いアルバイト生活をし、市民に分かりやすく問題を考えるために「15年間毎日20編の論文を読んで夢中で勉強しました」。

「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか」
宮沢賢治のこの言葉が道しるべになったと言われました。

その活動が国際的にも評価され「市民の立場に立った科学者としての功績」により第二のノーベル賞と称される賞をもらわれました。

私がTさんに「まだ緩和医療は広がってなく多くの苦しんでいる人がいます。こういう病院で限られた方だけを診ていていいのでしょうか」と言ってしまいました。Tさんは穏やかに応えられました。「私は自分の最後はあなたのような医者に看取ってほしいのです」
これは、ご自分の死を超えて持ち続けたTさんの「希望」を人々に伝えてほしいというメッセージなのでしょう。そして医療に対しても、「市民のための科学」と同様のものを求められたのでしょう。《科学としての医療に関する専門性を持つ医療者は、主体である患者さんに情報を公開し、その意思を最後まで尊重してともに歩いてこそ『患者さんのための医療』になる》というTさんの声が聞こえてくるようです。

(画像は、2006年、福島県双葉町の海水浴場)