闘いは終わった

Hさんを初めてエレベータまでお迎えに行ったとき「ここに入れて安心しました」と仰り、微笑んで握手を求められました。そのときから、最期の時まで、一度も「苦しい」などの訴えを聞きませんでた。考えられないことです。

当時のご家族の許可を得て記載させていただきます。

Hさんは駐英大使を最後に退職されてからは執筆活動をされていました。そんな時に、たまたま受けた健診で、3つのがんがわかりました。三重癌といって、違う臓器に違う細胞からなる3種類の癌が見つかったのです。きわめて稀でした。

それぞれに対して万全の積極的、標準治療を行いました。1年後に、不幸にもその一つが増大していることが分かったのでした。

私がお会いしたときは、ご家族からもご本人も「病状を聞きたくない」と言われました。これは「悪い情報を伝える」医療行為ですが、ご本人が希望しない意思を尊重しました。

Hさんのお部屋に入ると、さっとベッドから起きられて「大丈夫です」と言われます。診察をしてお苦しいに違いないと思っても、何も仰いません。「さあ、どうぞ座って。話しましょう」と外国生活のお話。
「先生も九州ですか。私も大使館のカラオケでは故郷の唄をうたいます」と古い民謡を唄われました。世界での困難な局面には日本を代表して向かわれます。長かった外国生活の間、苦悩を誰にも見せずに、ひとり故郷を想われていたのでしょう。

あるとき、腹痛を訴えられたので検査をし、病状が非常に進行していることをお話しました。それからも穏かな表情は変わりません。

「パパ大好きよ」「パパこのパジャマ素敵よ」。誰もがこんな女性になりたいと思うような奥さま、夏空の様な娘さんお二人が声をかけています。どなたかが背中をさすり、足をさすり、手を握って、いつもベッドを取り囲んでいます。Hさんはにこにこして お部屋は温かさに包まれていました。

ある朝高熱がでて下がりません。ついに来ました。その日の深夜でした。私がお部屋に行くとHさんはご自分でトイレに行こうとされます。支えられてご自分の足で行かれました。「ぱぱすごいわあ」娘さんたちは暗い表情も見せずお父様を讃えます。ベッドに戻ると表情が苦しそうになりましたが「酸素は要らない」とはっきり言われました。そして穏かな表情になり目を閉じました。

亡くなられたのはその1時間後でした。奥様が私に言われました。Hさんは亡くなる日の朝奥様に「もう闘いは終わった」と呟かれたそうです。そして奥様は仰いました。
「ここは彼と私たち家族にとって地上の楽園でした。亡くなった今はすがすがしい気持ちでさえあります」